八幡堀跡
八幡堀跡は、尾久八幡神社の東西を囲むように流れ、北側で合流して隅田川に注ぎ込んでいた水路の跡です。現在は埋め立てられていますが、一部は区道として形をとどめています。

さて、明治の末ごろの地図によっても八幡堀とよばれる神社周囲の流れを見ることができます。現在はこの堀はいずれも埋立てられて道路となり舗装されてしまっているのでその面影をみることができません。
(『写真でみる荒川区の史蹟めぐり』p.82より)
尾久八幡神社と八幡堀
八幡堀は、尾久八幡神社を囲うように流れるその形状から、同社の堀割としての役割を果たしていたとも考えられています。

八幡堀と舟運
八幡堀は、上尾久村の用水路でしたが、江戸時代は下肥の積み下ろしなどの舟運にも利用され、その当時の隅田川への注ぎ口の幅は約9メートルありました。また、明治以降、流路には猪苗代水力発電株式会社や材木屋の荷上場が設けられました。
江戸時代の上尾久村には音無川の用水が三方から引水されて、村内を縦横にその用水がそそいでいました。上尾久村の八割が水田であったといわれますから、道路上にはいくつもの小橋が架けられていました。 「橋番」という役が村の重要な仕事であったのです。
八幡神社の裏には堀が深く入りくんで、その周囲は水路で囲まれていたことがわかります。この「八幡堀」は今は埋立てられて道路となっていますが、大正の終りまでは残っていたのです。川には川越夜船がゆきかう尾久の停船場があり、船を利用しての生活上の物資の交流も盛んであったことが想像されます。
(『写真でみる荒川区の史蹟めぐり』p.133より)
川越夜船…川越を三時に出発し、翌朝八時頃に千住の河原町についたという。10~40人の乗客ものせた高瀬船であった。内河では竿で荒川に出て、戸田あたりで帆柱を立てたり櫓を使ったりした。
(『河原町の民俗地理論』p.158より)
八幡堀の西側及び隅田川へ注ぎ込む水路は、昭和8年(1933)に東京市によって起工された工事により、下水道の敷地として埋められて道路になりました。
尾久八幡公園
八幡神社に隣接する土地は、地元有志の請願により尾久八幡公園になりました。

本公園は村社八幡神社の後方に隣接する官有下水敷を昭和一〇年六月に八幡神社社掌及び氏子総代の名を以て払下げを受け、小公園を築造する案が企画され、昭和一〇年一二月に公園用地として小公園の施設を設けることになつたのである。
(『荒川区土木誌 ’55』p.132より)
八幡堀プロムナード
昭和60年、尾久宮前小学校の地域学習の授業で、ある児童が家から古地図のコピーを持ってきました。児童たちはそこに今は流れていない川をみつけ、調査した結果、音無川から引いた農業用水路が尾久八幡神社のまわりにあったことがわかりました。この児童たちの取組みがきっかけになり荒川区によって八幡堀跡を含むその流路が八幡堀プロムナードとして整備されました。
「八幡堀」を知っていますか 新たにモニュメントやプロムナードが完成
西尾久の八幡神社周辺にかつてあった農業用水路「八幡堀」を知っていますか。
尾久宮前小学校の社会科の学習のなかで再発見された「八幡堀」。その跡を何とか残そうと、学校や地域の人たちが協力して、いろいろな活動をしてきました。
その成果として、昨年三月に「八幡堀プロムナード」が完成したのに続いて、今年は、尾久八幡公園にモニュメント(記念碑)が設置されました。高さ約五メートルほどのこのモニュメントは、八幡堀をイメージして、昔の名物だった鶴やサクラソウがデザインされています。
(『地域ニュース 縮刷版』 p.255 4月号 平成2年3月25日発行 より)

史跡説明板
尾久図書館の敷地内に「八幡堀跡」の史跡説明板が設置されました。尾久図書館へ来館の際は、ぜひ史跡説明板をご覧いただき、村から街へと移り変わっていったこの地域の歴史の移り変わりを感じてください。また、近くの流路跡に立て水が流れていた頃の風景に思いをはせて下さい。

【所在地】
史跡説明板
東京都荒川区東尾久8丁目45-4
最寄駅
都電荒川線 宮ノ前停留所すぐ
日暮里・舎人ライナー 熊野前駅徒歩5分
【参考文献】
写真でみる荒川区の史蹟めぐり (高田隆成/著 荒川史談会 1977年)
荒川区土木誌 '55 (荒川区土木課/編 荒川区 1955年)
地域ニュース 縮刷版 昭和63年5月20日-平成6年3月25日 (荒川区地域振興部区民課/編 荒川区 1994年)
川の手あらかわ探偵報告 (荒川区川の手探偵団事務局 荒川区 1989年)
河原町の民俗地理論 (森栗茂一/著 弘文堂 1990年)
