太田道灌と「山吹の里伝説」

太田道灌は、室町時代の終わりから戦国時代初めにかけて活躍した武将で、代表的な功績として江戸城の築城が知られています。道灌伝承が多数残る日暮里の駅前には鷹狩り装束で弓を手にする道灌の騎馬像と、山吹の花を差し出している少女の像が設置されています。

太田資長(道灌)は、二五歳の康正二年に江戸築城に着手し、翌長禄元年(一四五七)に江戸城を完成させたと『鎌倉大草紙』等は伝える。

(『荒川区史 平成元年版 上巻』p.387より)

この頃の築城のうち太田道潅(*1)の江戸城は史上類を見ないものであり、後世の築城の範ともいわれた。

*1 原文は「潅」

(『新修荒川区史 昭和三十年版 上巻』p.282より)

太田道灌像「回天一枝」

太田氏は源頼政の裔といわれ、代々武蔵国都筑郡太田郷の地頭で扇谷上杉修理大夫定正に属し、英名あつた道潅(*1)は、越生に生まれて幼名を鶴千代といい、後資長持資と名を呼び、入道後は道潅(*1)ととなえた。

*1 原文は「潅」

(『新修荒川区史 昭和三十年版 上巻』p.280より)

道灌の非業の死は、江戸とその周辺に実に多くの伝説を生んで、今日に生き続けている。
その代表的なものが「山吹きの里」伝説であり、道灌の「夢見の築城」伝説及び道灌の築いた古城址の伝承である。東京二三区内はもとより川崎・横浜・市川市域に及んで、道灌伝説の地は五十余の所を数えるという。

(『荒川区史 平成元年版 上巻』p.417より)

この像は、平成元年に僧侶・彫刻家の橋本活道氏が制作し、元東京都知事・鈴木俊一氏が「回天一枝」と命名しました。

山吹の花一枝像

日暮里駅前にある、鷹狩り装束の太田道灌騎馬像の傍らで、山吹の花を手にした少女の銅像が佇んでいるのをご存知でしょうか。 この像は、山吹の花を少女が道灌に捧げたという「山吹の里伝説」の地にふさわしい作品として、荒川区顧問で彫刻家の平野千里氏が制作し、平成三十年五月、日暮里駅前に設置されました。

山吹の花一枝像

「山吹の里伝説」

ある日、鷹狩り中に急な雨に遭った道灌が蓑を借りようと、一軒の農家に立ち寄りました。
その時、中から出てきた少女は何も言わずに一枝の山吹を差し出しました。道灌はこれに腹を立て、立ち去りました。しかし、後に家来から、少女が「七重(ななえ)八重(やえ)(はな)()けども山吹(やまぶき)()のひとつだになきぞ(かな)しき」という古歌を引用し、「()の」と「(みの)」をかけて、“蓑”が無いことをお詫びする気持ちを込めて山吹の花を差し出したことを教えられました。以降、道灌は和歌の勉強に一層励んだといわれています。

「太田道灌 山吹の里伝説」案内板

「七重八重花は咲けども山吹の
実のひとつだになきぞ悲しき」
(後拾遺和歌集・兼明親王)

(日暮里駅前設置「山吹の花一枝」像右の「太田道灌 山吹の里伝説」案内板より)

「山吹の花一枝」像(手部分)

太田道灌一日放鷹に興じていると、急雨頻りに降り来つたので、路傍の農家に入つて簑を借ろうとした時、内から一人の少女が出できて、無言の儘に山吹の花を捧げた。道灌は少女の意を悟り得ず、憤り帰つて近臣にことの由を告げた。家臣の一人に「七重八重花は咲けども山吹の実の(簑にかけた)一つだになきぞ悲しき」の歌の心をもつて答えたものがあつて、道灌はこれから和歌の道を学ぶようになつたという。

(『新修荒川区史 昭和三十年版 上巻』p.687より)