津村節子と吉村昭

おふたりの写真

「きみが誰かと結婚して、その男と離婚するまで待っている」

私は何も出来ない女です 御飯の水加減もわからなくて お洗濯とお掃除は死ぬ程嫌ひで(不潔にしていても平気と云ふのではないの さう云う事に労力と時間を費やすのが惜しいのです)所謂良家の子女がお嫁入りの準備と称して習ふことを軽視して 女のくせに小説といふ厄介なものをしよつていかうと云ふヘンな女ですが まあどんなすばらしい奥さんになるか ケタがはずれてゐますが ちよつと類例のない奥さんになつてみせます だから大切にしなきやいけません その辺にいい奥さんはザラにいますが 私は貴方にとつてかけがへのない奥さんになつてみせます 自分で云ふのだから確かよ(これは貴方のせりふね)※2

これは津村氏が結婚前に吉村氏に出した手紙である。

吉村昭氏と津村節子氏が結婚したのは、昭和29年。吉村が26歳、津村が25歳であった。

多くの人が結婚前にはプロポーズをするし、されたりするであろう。
津村氏の場合は、そのきっかけを「弟にそそのかされて、二人は結婚を考えるようになっていた。※3」と記している。弟とは吉村昭氏の弟である。そのいきさつは、作家という芸術家同士の二人ならではと思わせるようなエピソードと言葉を残している。

津村氏の青春時代の自伝的三部作の一つ、小説『瑠璃色の石』に、その日のことが書かれている。
弟に呼び出され、兄に内緒で会うと、弟は兄と結婚するつもりはないのかとたずねる。

「ねえ昴さん。私は小説を書くことしか考えていないのよ。小説を書く女なんて、男は辛抱出来ないんですってよ」
「誰がそんなこと言ったんです」
「圭介さんがそう言ったわ」
「そんなこと、兄貴が言うわけがない」
「言ったのよ。聞いてごらんなさい」
「言うわけがない。兄貴はねえさんと結婚したいんだもの。もしそう言ったとしても、言い方が違うんじゃない。正確にはどう言ったんです」
私はうまく引き出されて、小説を書く女など男だったら辛抱出来ないだろうから、きみが離婚するまで待っている、と言った、と話した。
「ほらね、ちゃんとプロポーズしている」
昴は勝ち誇ったように言った。
「そんなプロポーズってないでしょう。小説書く女なんか辛抱出来ない、と言ったのよ」
「ねえさんも小説書く人なら、そこのところのニュアンスは汲み取って貰いたい」
昴は偉そうに言った。※4

これはあくまでフィクションだが、津村・吉村氏が二人で交わした手紙をあらためこれまでを振り返った津村氏の随筆『果てなき便り』には同様のことが記されている。吉村氏が結核で生死をさまよい闘病していた時に付き添って看病し、また大きな支えとなっていた弟が「骨がなくて、大学中退で、まともな会社に就職なんか出来ない兄貴の気持の屈折を、小説を書く人なんだから汲み取ってやって下さい※5」と言い、「私は弟からプロポーズされているような気がした※5」と書いている。

津村氏は小説を書くことしか頭になく、結婚などする気は全くなかったようだが、気持ちの中に変化が生まれていく。

「きみが誰かと結婚して、その男と離婚するまで待っている※1」
これが、吉村氏と津村氏が結婚するきっかけとなった言葉である。

昭和52年8月、高野山に講演に出かけた吉村氏が津村氏に出した手紙に、こんな一文がある。

貴女は人間的に素晴らしい。女としても、僕には分に過ぎたひとです。
貴女と共に過すことができたことは、僕の最大の幸福です。生きてきた甲斐があった、生れてきた甲斐があったと思います。※6

そして、先ほど紹介した自伝的小説『瑠璃色の石』は、津村氏が学習院短期大学を卒業する時に吉村昭から卒業祝いとしてもらった「瑠璃色に光る七宝焼の楕円形の玉を連ねたネックレス※7」がモチーフとなっている。

※1『瑠璃色の石』149頁

※2『果てなき便り』50頁

※3『果てなき便り』49頁

※4『瑠璃色の石』158頁

※5『果てなき便り』46頁

※6『果てなき便り』145頁

※7『果てなき便り』15頁

紹介した本

『瑠璃色の石』津村節子/新潮文庫/2007年

『果てなき便り』津村節子/岩波書店/2016年

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