世界のAKIRA YOSHIMURA

はじめにスペイン語あり

1989年に、棟方志功の色鮮やかな版画を表紙に飾った「戦後日本文学選集」がメキシコで出版された。この本に収められた短編の著者には松本清張、石原慎太郎、曽野綾子や井上ひさし、そして吉村昭氏が名を連ねていた。現在確認されている限り、吉村作品の最初の翻訳となった。

この選集に掲載された吉村氏の短編は「背中の鉄道」。編集者の田辺厚子氏はメキシコ在住の評論家で、以前にも三島由紀夫や安部公房の作品を南米に紹介し、ヨーロッパでも注目された。その知識と実績をもとに、当時海外ではまだ認知度が低かった吉村文学にスポットライトをあてることができたと思われる。

「背中の鉄道」の翻訳はアルゼンチン出身のアマリア・サトが担当し、選集の出版はメキシコ日本友好協会と国際交流基金の支援によって実現した。このように、吉村文学の世界的デビューの背景には、海外での日本文化紹介に努めた個人と国際交流支援団体の協力があった。

多言語翻訳への道

一方、吉村氏の小説が初めて海外で出版されたのは1990年のフランスで、訳された作品は歴史小説の「ポーツマスの旗」だった。この作品は「公文書や個人の記録や証言をもとに、交渉の歴史を一日一日忠実に再現」した「日本外交に関する記録文学」として高く評価された。

それから1年後、欧米に拠点を持つ講談社インターナショナルが吉村作品の英訳を手掛け、「戦艦武蔵」を刊行した。この小説は「世界一強力な戦艦の製造と破壊を背景としたヒューマン・ドラマ」として宣伝されたが、海外ではむしろ「テクノヒストリー」として受け止められ、吉村昭は「技術史文学」の創始者と見なされた。

さらに、1992年にドイツで出版された短編集に、吉村氏筆の「さそり座」が収められた。ここでは吉村氏の作品は村上春樹による短編の前に掲載され、吉村文学に対する評価が窺える。

この時点で、吉村作品は欧米の主要言語に訳され、世界に広まる土台が作られた。

世界的な人気のきっかけ

吉村文学の海外ブームは、6作品が5原語で刊行された2002年にピークを迎えたが、そのきっかけは1996年出版の「破船」の英訳である。この作品はアメリカのハーコート出版によって「ミステリーと運命のホラーを描くゴシック物語」として紹介され、話題を呼んだ。著名な哲学者のリチャード・バーンスタインは「破船」を「厳格に美しい、忘れられない小説」と称賛し、物語の簡素さ、逆説と感情の深さは日本の古典的な映画を思わせると評した。アメリカでの人気を受け、「破船」は次々とドイツ語、オランダ語、フランス語やポーランド語に訳され、2016年までにギリシア語やヘブライ語を含む9か国語で刊行された。

さらに、人気に拍車をかけたのは1999年「仮釈放」と2001年「遠い日の戦争」の英訳である。前者は日本文学研究者で、永井荷風や村上龍の英訳で定評のあるスティーヴン・スナイダー、後者は「破船」も担当したマーク・イーリが訳した。特にイーリの翻訳が注目を集め、2004年に作家も訳者も評されるインデペンデント紙海外フィクション文学賞の候補となった。この賞にノミネートされた日本の作家は遠藤周作に次いで、吉村昭が二人目だった。

ところ変われば…

1998年から今日まで、吉村作品はほぼ毎年世界のどこかの国で訳され、出版されてきた。現在は17か国で出版され、14の言語に訳されており、吉村文学の読者は世界各国にいるといえる。一方、文化や様々な歴史的背景のため、評価される作品も少しずつ異なっている。

吉村文学の翻訳が最も多いのはフランスで、今日まで出版された小説と短編集は11冊、合計25作品である。歴史小説の「ポーツマスの旗」を皮切りに、世界各国で人気の「破船」や「仮釈放」も訳されたが、21世紀に入り「少女架刑」、「星への旅」や「死のある風景」など、生と死を描いた作品が主流である。フランスでは吉村昭が「偉大なるヒューマニスト作家」として評価されるのも頷ける。

それに対し、英語に訳された作品は計7作で、戦争小説が多いが、最近は歴史小説「ふぉん・しいほるとの娘」も刊行された。ドイツ語は5作だが、2015年出版の医学小説「雪の花」も含まれている。また、他国とは異なる1作品のみ訳された例として、2002年の「ニコライ遭難」ロシア語版と2018年の「破獄」中国版があげられる。アジア言語への翻訳が少ないなかで、中国での出版は新しい海外展開への道を開くと期待される。

文学が国境を超えるとき

吉村文学を題材にして、日本ではいくつかの作品が生れ、今村昌平監督の映画「うなぎ」のように、海外で受賞したものもある。そして、翻訳書もまた海外の人々を魅了し、新しい作品や研究の刺激となった。21世紀の欧米に誕生した作品や動きは次の通り。

まずは「少女架刑」に基づいた演劇。2004年のアヴィニオン演劇祭オフにおいて、フランスの演出家マーク・アンジュ・サンツが吉村作品を舞台にかけた。また、同劇を2005年と2007年に劇場で再演し、「素晴らしい芸術」、「どんな状況でも見逃せない舞台」と評判をえた。

さらに、2020年にはパンデミックを背景に、米国のピッツバーグ大学付属研究機関の主催で「破船」をテーマとしたオンラインセミナーが開催された。そして、同じ年にフランスの監督ドミニク・リエナール監督による映画「Des feux dans la nuit」(英語タイトル「Fires in the dark」)が発表された。 そのシナリオは「破船」に基づいているが、ストーリーは17世紀のフランスの村を舞台としている。この作品は2022年末まで45か国の映画祭で紹介され、受賞もしている。日本では2021年のRising Sun International Film Festival(北九州市)において初公開。かねてから期待されていた荒川区での上映は2023年2月26日にゆいの森ホールで行われた。上映会は満席となり、観客はリエナール監督からの映像メッセージと、自然描写や色彩表現の美しさが際立つ映画を楽しんだ。