尾久初空襲を調べる

尾久初空襲とは

昭和十七年(一九四二年)四月十八日、
ドウリットル指揮の米陸軍航空部隊のB25一箇中隊は、(中略)東京をはじめ数都市を攻撃(中略)
東京における最初の空襲で、本区においては尾久九丁目二、七九五附近に爆弾焼夷弾が混投され
火災を発生して死者九名、重傷者三十八名を出した。
『新修荒川区史 昭和三十年版』p.1007、1008より

尾久初空襲に関して残された写真は、いずれも当時、警視庁のカメラマンであった石川光陽氏撮影によるものです。

概要

                       (1)出版年月 (2)請求記号

『新修荒川区史 昭和三十年版 下巻』 荒川区 (1)1955.3 (2)A213.61
p.1007~1008「第三節 戦災」
東京都で編纂した『東京都戦災誌』に収められた戦災日誌から、荒川区の被った災害状況、初空襲の記載も確認できる。戦災区域図あり。

『荒川区土木誌 ’71』 荒川区 (1)1971.12 (2)A517
p.218~219「6.戦災」
戦災区域図あり。

『尾久の民俗』 荒川区教育委員会 (1)1991.3 (2)A382.1
p.10「戦争中の尾久」
『新修荒川区史』からの抜粋。

『東京都戦災誌』 明元社 (1)2005.8 (2)T391.2 000
p.263「第1節 戦災日誌」
昭和28年に東京都がまとめた行政文献資料。消防庁調査による消失地域に尾久の地名が確認できる。

『東京大空襲・戦災誌 第2巻』 東京空襲を記録する会 (1)1973 (2)210.75
口絵p.2、p.22~30「初空襲のあらまし」
体験者の記録掲載。

『図説東京大空襲(ふくろうの本)』 河出書房新社 (1)2003.8 (2)T391.2 000
p.6~10「1.最初の東京空襲」
ドゥリットル空襲図、ドゥリットル隊長ら搭乗員写真、尾久の破壊された民家写真あり。

『いのちと平和のバトンを-東京大空襲・戦災資料センター図録-』合同出版 (1)2022.3 (2)A391.2
p.41「初空襲(1942年)」
日本軍が作成したアメリカ軍焼夷弾報告書、空母ホーネットを飛び立つB25、荒川区尾久の初空襲被害(母子)の写真あり。

『旭電化工業70年史』旭電化工業 (1)1989.7 (2)A570
p.297「戦時体制を生きる」
初空襲でパルプ工場が軽微な損傷をうけたと短文記載あり。

『東京大惨害ドキュメント-関東大震災・東京大空襲 次の東京大惨害の日はいつか-』自由国民社 (1)1973.9 (2)QT391.2 000
p.88~102「最初の空襲とそのショック」
空襲の被害地区の簡易地図あり。
加太こうじ氏『ふたりの昭和史』、石川光陽氏『石川光陽日記』からの引用で当時の様子がうかがえる。

『本土空襲全記録(NHKスペシャル戦争の真実シリーズ1)』KADOKAWA (1)2018.8 (2)391
p.35~38「3.初めての本土空襲は真珠湾攻撃からわずか4か月後だった」「初空襲によって死者10人、重傷者34人の被害が出た荒川区」
初空襲を荒川区で体験した堀川喜四雄氏の体験談が掲載されている。石川光陽氏撮影の尾久の本土初の空襲写真あり。

『母と子でみる東京大空襲』草土文化 (1)1983.3 (2)391
p.16「初空襲から3月4日空襲まで」
初空襲で壊された尾久の民家等の写真あり。

『昭和史全記録-Chronicle 1926-1989-』毎日新聞社 (1)1989.3 (2)210.7
p.253「東京初空襲」
当日の尾久町の様子を語る、被爆者吉田兵衛氏の談話が掲載されている。

『ドゥーリトル日本初空襲』三省堂 (1)1989.6 (2)A210.75
p.134 『昭和史全記録』に掲載された、荒川区で爆撃を目撃した人の回想が紹介されている。
『ドゥーリトル日本初空襲-1942.4.18-』徳間書店 (1)1997.7 (2)QA210.75
p.148 上記と同じ内容の文庫版。

記録写真

『東京空襲写真集-決定版 アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録-』勉誠出版 (1)2015.1 (2)A391.2
p.4~11「第1章 1942年4月」
警視庁カメラマン石川光陽氏が荒川区尾久の死者や建物の被害を撮影した写真を掲載。

『東京大空襲の全記録<グラフィック・レポート>』岩波書店 (1)1992.3 (2)T391.2 000
p.8~14「1.昭和17年(1942)に東京初空襲」
石川光陽氏の荒川区尾久の被災現場、爆弾跡、死者の被害写真を掲載。写真の他に、当日の様子を語る記載あり。

『東京大空襲の記録』三省堂 (1)1982.3 (2)A391.2
p.10~13「1.初空襲から3月4日空襲まで」
破壊された民家、死者の被害写真を掲載。

『東京大空襲の記録-写真版-』新潮社 (1)1987.7 (2)T391.2 000
p.22~27「第2章はじめての東京空襲」
文庫版の写真集。石川光陽氏の荒川区尾久の死者や建物の被害写真を掲載。

『東京大空襲秘録写真集』雄鶏社 (1)1954.7 (2)A391.2
p.38~41「帝都初空襲」
尾久の被害現場写真、ドゥリットル空襲による被害要図の掲載あり。
p.146 警視庁資料による「東京空襲被害一覧表」あり。

『ドキュメント 東京大空襲』雄鶏社 (1)1968.6 (2)A391.2
p.17「帝都初空襲」
尾久に投下された爆弾漏斗孔、羅災現場の写真あり。
p.42~46「東京初空襲」
石川光陽氏の写真から当日の被害状況が確認できる。
p.152「ドゥーリットル空襲」

『空襲-初めて公開する東京大空襲秘録写真集-(雄鶏通信 臨時増刊)』雄鶏社 (1)1953.7 (2)A391.2
p.4~5「青天の霹靂」
尾久の被害現場写真、当時のライフ誌に掲載された東京空襲計画の掲載あり。

地図

『復刻大東京三十五区分詳図(昭和16年)』昭和礼文社 (1)1941 (2)A291.5
折りたたみ地図1枚。縮尺:9000分の1。被災当時の町名や番地を確認できる。

米国側の視点

『ドーリットル空襲秘録-日米全調査-』アリアドネ企画 (1)2003.11 (2)A391.2
p.53~57「攻撃の初弾を放った二番機(第三七爆撃中隊所属、機番:40-2292、機長:トラヴィス・フーバー中尉)」
p.48、61「東京市中部地図」1、2番機、「東京市北部地図」3番機が爆撃した地点を示す地図を掲載。(尾久町8・9丁目)

『東京初空襲-アメリカ特攻作戦の記録-』彩流社 (1)1982.12 (2)A391.2
p.172~180「目標は三本の煙突」
二番機の航法士による報告。
尾久の地名は出てこないが、尾久地区に爆弾を投下した二番機搭乗員の報告が記載されている。

『二つの戦犯裁判-ドゥーリトル事件はいかに裁かれたか-』光人社 (1)2009.1 (2)T391.2 400
p.27~51「日本初空襲はいかにおこなわれたか」
尾久の地名は出てこないが、飛行士たちの証言に基づく米機の攻撃概要、ドゥーリトル攻撃隊編成、行動状況一覧が確認できる。


*米機指揮官の「Doolittle」(ドーリットル・ドゥーリトル)の表記は各種様々あるが、図書の表記通りとする。

吉村昭の見た東京初空襲

『東京の戦争』筑摩書房 (1)2001.7 (2)Wヨシ
p.8~15「空襲のこと[前]」
吉村昭氏初の回想記。中学3年生当時、東京初空襲の米軍機B25を日暮里の自宅から目撃した際の記憶を綴る。

『昭和史をどう生きたか-半藤一利対談-』文藝春秋 (1)2018.7 (2)B210
p.187~207「東京の戦争 吉村昭」
『東京の戦争』執筆後、雑誌『文藝春秋』2001年で実現した半藤一利氏と吉村昭氏の対談。東京初空襲時に米軍機B25を目撃、 マフラーを巻いた飛行士2人が見えたエピソードを語っている。

『縁起のいい客』文藝春秋 (1)2003.1 (2)Wヨシ
p.149~160「オレンジ色のマフラー」
吉村昭氏エッセイ。半藤一利氏との対談後の後日談。本当に超低空飛行の米軍飛行士が見えたのか、その後に調査した経緯が掲載されている。

『背中の勲章 改版』新潮社 (1)2012.9 (2)Bヨシ
p.5~9「背中の勲章」
戦争文学作品。吉村昭氏が東京初空襲の際に日暮里の自宅から米軍機B25をみた体験談から物語が始まる。