吉村の愛した「東京下町根岸グルメ」

純文学のみならず、戦史や歴史を素材とした記録性の高い作品を数多く発表した吉村氏ですが、随筆の名手でもあったことは言うまでもありません。
今回紹介する随筆集『味を追う旅』は、出版社の内容紹介によると「グルメに淫せず、うんちくを語らず、ただ純粋にうまいものを味わう旅」とのこと。
取材で訪れた旅先、生まれ育った東京の下町の食をテーマにした随筆集を読み進めると、たしかに吉村氏らしく、淡々と文章が綴られ、ここかしこに「うまい」と記されています。ごちゃごちゃした説明はありません。とにかく「うまい」のです。

今回は、幼少期・青年期と過ごした地の、吉村氏が慣れ親しみ、何度も食べたであろう「うまい店」を2店、ご紹介します。

今回紹介する作品

『味を追う旅』(河出書房新社/2013年11月)に収録
「上野・根岸・浅草」139~143頁
2010年に河出書房新社より刊行された「味を訪ねて」の改題文庫版

小道をたどると、柳並木の柳通りに出る。この通りに洋食屋の「香味屋」があり、よく立ち寄る。レストランというより洋食屋と言った感じで、雰囲気がいい。私は、ビーフシチュー、コロッケを食べる。ほかにうまいものがあるのだろうが、年に三、四回しか行けぬので、味が忘れられずそれを註文する。

味が忘れられない洋食屋 レストラン香味屋

吉村氏が生まれた日暮里からほど近い、台東区根岸にあるレストラン香味屋(かみや)。
大正14年創業の洋食屋は、当初は輸入雑貨店でした。
かつての根岸は花柳界でにぎわう街。珈琲豆などをあつかっていたことから、芸者衆の要望を受けて珈琲と軽食を出すようになり、それから徐々に洋食屋へと歩んでいったそうです。

戦後まもなく、柳通りに面した場所で本格的な洋食屋として再開。
現在も同じ場所で、当時からの確かな味を伝え続けています。
吉村氏が足を運んでいたのも、もちろん、このお店です。

老舗洋食屋のメニューには、これまでの歴史と、代々のシェフの探究が見られます。
吉村氏が香味屋を「味が忘れられない洋食屋」と称する理由がメニューから感じられます。

2代目のシェフが完成させたという「ビーフシチュー」。
香味屋のホームページにこのメニュー誕生のいきさつが記されています。

いわゆる「シチュー」ではなく、中華の「とんぼうろう」、日本食の「豚の角煮」のようなスタイルにすることで、香味屋の1皿を完成させました。

また、東京の下町で営んできた洋食屋だからこその言葉も、ホームページには綴られています。

彼らに根付いていた「粋」の文化からか、「手を抜いていない、いいものを食べたい」という強いリクエストがありました。
私たちは、そのような下町の方々のリクエストに、手を抜かず、真摯に応えることに努めてきたからこそ、いまもご支持いただけている「下町の洋食屋さん」です。
下町で育まれた、丁寧に作られた料理・サービスを是非、楽しんでいただければ幸いです。

レストラン香味屋
所在地 東京都台東区根岸3-18-18
TEL 03-3873-2116
アクセス 東京メトロ入谷駅から徒歩5分、JR鶯谷駅から徒歩10分ほど
HP https://www.kami-ya.co.jp/honten/

根岸は、私の生れた町の隣町でなじみ深い。鶯谷駅の上野寄り改札口を出て、跨線橋を下り横断歩道を渡って、書店のわきの道を入る。右側にせんべい屋が二軒並び、その前を過ぎ三また道の中央の小道に入る。角に「手児奈せんべい」という小店があり、ここでせんべいを買うことにしている。

お好きだったみたいよ、うちのせんべい

鶯谷駅から根岸方面へ、言問通りからうぐいす通りへと進むと、三叉路の角に見えてくる「手児奈せんべい店」の大きな看板。
店の間口いっぱいに置かれたショーケースには、いろんな種類の煎餅が並びます。
香ばしさが伝わってくるような醤油の色、カリッと焼かれた煎餅は、いかにも江戸っ子に愛され続けた品だと、見ているだけでわかります。
店構えが昔懐かしい気持ちにさせてくれ、同時に、今では珍しくなった手焼き煎餅からは店の誇りが伝わってきます。

奥さんに、吉村氏についてたずねてみると、「本で紹介してくださって、気に入ってくれていたことは知っています」とのこと。
2度ほど「吉村さんだわ」と気がついたことがあるとお話してくださいました。

創業70年になる手児奈せんべい店。吉村氏が幾度となく買い求めたであろう味が、ここにあります。いわゆるお気に入りの味です。

手児奈せんべい店
所在地 東京都台東区根岸3丁目13-1
アクセス 東京メトロ入谷駅から徒歩4分、JR鶯谷駅から徒歩5分ほど