尾久の原


 

町屋図書館から少し北へ行くと隅田川が流れており、すぐ西には都立尾久の原公園が広がっています。
江戸時代、このあたりは桜草の名所「尾久の原」として知られていました。

 

この尾竹橋通りの西側の川筋一帯は、かつて桜草で知られた尾久の原である。
隅田川沿岸の泥土質の原野は、桜草の自生地でもあった。人々を苦しめた大河の氾濫は、一方でその泥水におおわれる肥沃な土地に桜草を育てた。
四月下旬から五月下旬にかけて紅毛氈を敷いたような花盛りに、草摘みという優雅な遊びの模様が『江戸名所花暦』に描かれている。

(『荒川区の歴史(東京ふる里文庫19)』p.195)


江戸名所花暦 巻之1 より 尾久の原

"江戸名所花暦 巻之1"
出典:国立国会図書館ウェブサイトhttps://dl.ndl.go.jp/pid/763655/1/36

桜草 尾久の原 王子村と千住のあひた。今は尾久の原になし。

(『江戸名所花暦 改訂新装版』p.53)

桜草の名所として絵図をのせつつ、「今は尾久の原になし」となっています。
「江戸名所花暦」は天保8年(1837)の刊行だそうです。

桜草愛好家による小冊子『さくらそう -江戸・東京の花-』では、「さくらそうの歴史」が紹介されています。

荒川原野のさくらそう群生地
 埼玉から東京を流れる荒川の原野には、江戸時代から大正の終わりころまで、上流の高原から流れてきて繁殖したという大群生地があり、春の花時には野遊びの人たちで賑わいました。

江戸の発展により出現し、消滅した
 江戸の街の発展により、野焼きなど原野を利用した営みによって生まれ、時々起こる洪水などで増殖と衰退をくり返しました。

(『さくらそう -江戸・東京の花-』p.3)

「東京戸田原さくら草」

“喜斎立祥『東京戸田原さくら草』”
出典:国立国会図書館ウェブサイト https://dl.ndl.go.jp/pid/1308736

荒川沿いにいくつもあった自生地は治水工事や新田開発で減りつづけ、1920年には「田島ヶ原サクラソウ自生地」が国の天然記念物に指定されています。

 

「尾久の原」というのは、江戸の中でも桜草が美しく咲く場所で有名だったんだ。(中略)

江戸時代の中頃には、原っぱは耕されて農地に姿を変え、桜草は尾久から消えてしまった。

でもね、その景色の美しさは何年にもわたって伝えられ、江戸で桜草と言えば「尾久の原」が一番だったと言われ続けたんだ。

(『あらかわ今昔ものがたり』p.23~ 24)

尾久の原は、原野から農地へ、農村から工場地帯へと変わり、工場移転後の跡地には「トンボの楽園」と言われるほどの原っぱが広がりました。

その自然の移り変わりについては『下町によみがえったトンボの楽園』にわかりやすく書かれています。

 

工場跡地によみがえった原っぱは、子どもたちに人気のある遊び場となりました。下町に集う私たちの仲間は、この場所を自然の少ない下町に自然をとりもどすための公園にできないかと考えました。そこで工場跡地の探検がはじまったのです。

(『下町によみがえったトンボの楽園』p.4)

現在、住宅街のなかにひらけた都立尾久の原公園は、一年を通じて多くの人々の憩いの場所になっています。

 

隅田川堤防から町屋5丁目方面

“隅田川堤防から町屋5丁目方面”

 

【引用文献】
荒川区の歴史 東京ふる里文庫19』(松平康夫/文 東京にふる里をつくる会/編 名著出版 1979)
江戸名所花暦 改訂新装版』(岡山鳥/著 長谷川雪旦/画 今井金吾/校注 八坂書房 1994)
さくらそう -江戸・東京の花-』(さくらそう会 2002)
あらかわ今昔ものがたり』(荒川区立荒川ふるさと文化館 2009)

下町によみがえったトンボの楽園』(野村圭佑/著 大日本図書 1998)

【参考文献】
新修荒川区史 昭和三十年版 上巻』(荒川区 1955年)
尾久の民俗』(荒川区教育委員会 1991)
江戸の自然誌 -『武江産物志』を読む-』(野村圭佑/著 どうぶつ社 2002)
ADEKA 100年史 1917-2017』(ADEKA 2017)