道灌山


 

JR西日暮里駅の西側に切り立った大きな崖があります。
その上の開成学園を含む諏訪台北部の台地が「道灌山」と呼ばれ、西日暮里4丁目に位置します。
地名の由来は太田道灌の出城があった場所と伝えられていますが、鎌倉時代の豪族 関道閑の屋敷跡だったという説も残っています。


現在の道灌山の崖

 

昭和29年から発掘調査が行われた「道灌山遺跡」は、縄文時代から江戸時代の遺物が確認されています。そのことから、道灌山には古くから人が住んでいたと考えられています。

 

江戸時代の道灌山は秋田藩主(佐竹氏)の抱屋敷や見晴台があり、その眺めは三河島や尾久の田園風景、筑波山や日光連山、下総国府台(千葉県市川市)などを一望できました。
また付近には薬草園もあったといわれ、薬草摘みや花見、虫聞き、月見など四季折々の風情を楽しむ行楽客が集う江戸の名所でもありました。
 


道灌山 絵師:広重 収載資料名:江戸名勝図絵
(画像)出典:国立国会図書館「錦絵と写真でめぐる日本の名所」 https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/dokanyama

 


 

秋の風物詩である「虫聞き」。道灌山での様子は歌川広重画の「道灌山虫聞之図」にも描かれています。


道灌山虫聞之図 絵師:広重 出版者:東都名所
(画像)出典:国立国会図書館「錦絵と写真でめぐる日本の名所」 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/dokanyama)

東都明所 道灌山虫聞之図
天保10年~13年(1839~42)
歌川広重画 佐野喜版 満光寺蔵
・・・道灌山に向かう女性と子供、見晴台に盃片手に虫聞きに興じる男性、奥に田園と月という
構図は、道灌山の景観を示すものであり、初代広重をはじめ、その他の絵師たちも、雪旦の挿絵を踏襲して描いていく。
(『あらかわと太田道灌』 荒川区立荒川ふるさと文化館 p54より)


 

明治期になると道灌山を取り巻く状況が変化していきます。

佐竹氏の抱屋敷は明治以降荒廃していつしか「佐竹っ原」と呼ばれるようになりました。途中、道灌山一帯を公園にしようという計画が東京市区改正委員会によって発足しますが、頓挫し、長らく荒れ地となって放置されていました。

そのような状況から大正5年、転機を迎えます。
道灌山の西側斜面一帯(現在の西日暮里4丁目の西半分)が渡辺保全会社によって、近代的田園都市を目指して開発が始まったのです。
簡易水道や排水施設・電気・ガスの完備した、東京の中でも最先端の文化的住宅地に変わりました。
 

 


(画像)p.116 「渡辺町住宅街」
『カメラがとらえた あの日 あの場所 Arakawa Photo History』
(荒川区立荒川ふるさと文化館 2022年) 

ここでは渡辺保全会社の関係者や洋画家の石井柏亭や日本画家の長野草風といった文化人が生活を送っていました。

 

戦災で大部分が焼失しましたが、この時策定した区画は現在でも残っています。

 

【参考文献】
日暮里SAIKO(最高・再考)』(荒川区立荒川ふるさと文化館 荒川区教育委員会 2009年)
荒川区史 平成元年版』上巻(荒川区 1989年)
日暮里の民俗 荒川区民俗調査報告書5』(荒川区民俗調査団 1997年)
カメラがとらえた あの日 あの場所 Arakawa Photo History』(荒川区立荒川ふるさと文化館 2022年)
あらかわと太田道灌』(荒川区立荒川ふるさと文化館 荒川区教育委員会 2019年)