私の好きな吉村昭作品『私の文学漂流』

吉村昭『私の文学漂流』(筑摩書房/2009年2月)
吉村昭が作家として身を立てるに至るまでを書いた自伝的回想録。少年吉村昭は、中学に入った頃、当時死の病といわれた結核に侵されたことをきっかけに、偶然にも多くのすぐれた文学作品に触れる機会に恵まれる。大手術によって大病を乗り越え、文学の道を志した吉村は、当時主流だった同人誌を通して、自身の作品を地道に世に発表し、多くの著名な作家と交流を通して小説を書くということ、作品を評価し、評価されるということはどういうことなのか考えを深めていく。また、大学の文芸部で出会い、同じく小説家を目指す北原節子と結婚し、支え合いながらも、夫婦同業故の苦労も経験する。
商業誌とは違い、直接収入に繋がらない同人誌での執筆活動と会社勤めを両立していくことの難しさ、その中で苦悩や葛藤、焦燥感を抱きつつも、書くことへの意欲を失うことなく、やがては芥川賞候補者として四度も選出され、『星への旅』では太宰治賞を受賞し、今なお多くの人に読み継がれる『戦艦武蔵』(昭和41年 新潮社)や『高熱隧道』(昭和42年 新潮社)のような記録文学の道を開拓していく。
この本は、作家としてだけでなく、一人の人間としての吉村昭がどのような経験を経て形成されていったのかの成長記録でもある。多くの挫折や失敗を味わいながらも、妻や編集者、先輩作家の言葉に鼓舞され、吉村昭は本物の作家として少しずつ歩を進めていく。
私自身、吉村昭のエッセイや取材ノートを読んでいると、作品づくりに取り組む確固たる強い意志とぶれない信念を感じ、それは一体どこからくるものなのかと思っていたが、その姿勢や考え方の礎が全てこの頃の経験によって築かれたものなのだと改めて感じ、作家吉村昭が誕生する前の人間臭く、未熟な人間であった頃の吉村昭を見た気がする。何か困難に直面したとき、望む通りに物事が進まないとき、腐らずやさぐれず、それをいかに自分の中に落とし込み、咀嚼して自分の血肉とするのか、人の生き方としても学ぶところが多くあった。険しく、先が見えず、恐怖や不安を伴う茨の道をゆっくりと進んでいく静かな強さこそ吉村昭の底力であると感じた。
津村節子著の自伝的小説『重い歳月』(昭和60年 新潮社)を読むと吉村の苦労もさることながら、津村節子の妻、母、作家としての大変さはいかばかりだったのかと敬意の念に堪えない。また、作家ではなく夫であり父である吉村昭の目線で語る『一家の主』(昭和49年 毎日新聞社)も違う趣があって楽しめる。
吉村昭記念文学館企画展『吉村昭と「文学者」』は
令和7年8月9日(土)~10月3日(金)
ゆいの森あらかわ 3階企画展示室にて開催
司書による企画展レポートはこちら

